262/1000 松ヶ岡公園(福島県いわき市)

2013/02/06

いわき市 偉人像 大きな公園 福島県 遊園地のある公園

t f B! P L
松ヶ岡公園は、いわき市の中でも古い公園で1907年(明治40年)に日露戦争記念行事として整備が始まり、1913年(大正2年)に完成したのだそうです。市街地を見渡せる丘が公園になっており、JR常磐線からもよく見えるので、いわき市を代表する公園と言えるでしょう。

資料によれば、もとは防火用水を兼ねた大貯水池があったそうですが、今は見あたりません。
駐車場の横にあるひょうたん池が、それの名残なのかも知れません。
ちなみに水面を見ていただければわかるように、私が訪問した時は初冬のけっこうな大雨の日のそれも夕方近くで、松ヶ岡公園の魅力を伝えるには頼りない写真ばかりなのをご理解ください。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

さて、駐車場と池のそばには、平出身で数奇な一生を送った明治の歌人?・天田愚庵の庵が移築復元されています。
私は愚庵のことを知らなかったのですが、現地の解説板を読む限りでは、僧でもあり、歌人でもあり、思想家のようでもヤクザのようでもあり、なかなか一筋縄ではいかない人物だったようです。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

●現地の解説板より
『天田愚庵邸』
所在地:いわき市平字古鍛冶町127
管理者:いわき市教育委員会
 天田愚庵は安政元年(1854年)7月20日、磐城平藩主安藤信正の家臣甘田平太夫の五男として平城下に生まれた。幼名を久五郎といい、後に(明治4年)天田五郎と改めた。
 明治元年(1868年)、15歳で戊辰の役に出陣中、父母妹が行方不明となる。以後20年間、肉親を捜して全国を歩った。その間、山岡鉄舟の知遇を受け、また一時、清水次郎長(山本長五郎)の養子となった。この時期「東海遊侠伝」を出版、その後の「次郎長もの」の種本となっている。
明治20年、五郎34歳のとき滴水禅師(てきすいぜんし)によって仏門に入り、鉄眼(てつげん)と号した。
 明治25年、京都清水に庵を結んで「愚庵」を名乗った。漢詩において異彩を放ったばかりでなく、万葉調歌人としてすぐれ、正岡子規に大きな影響を与えた。
 明治37年(1904年)1月17日、京都伏見桃山の庵で没した。享年51歳。その旧居は昭和41年秋、有志により伏見桃山からここに移築復元された。
平成元年11月 いわき市教育委員会

駐車場を離れると、道に赤い橋が架かっています。写真左手が第1公園、右手が第2公園になります。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

第2公園の目玉は「トンネルぐるりん」と名付けられた不思議な遊具。
なかなか口では説明しづらいので、写真でご覧ください。確かにトンネルがぐるりんとなっています。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)
松ヶ岡公園(福島県いわき市)
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

先ほどの赤い橋を渡ると、散る間際の紅葉が美しい第1公園に入ります。サクラ、ツツジ、紅葉等々、一年を通じて植物を楽しめる公園になっているようです。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

坂を上りきったところには忠魂碑。もともとが日露戦争記念の公園なので、よく目立つところにあります。砲弾型の外周柵がオシャレです。
とは言え、本当は台座の上に忠魂碑があるはずなのですが、震災でポッキリと折れてしまったそうです。ほかに台座や灯籠なども壊れており、訪れた時は周囲立入禁止になっていました。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

忠魂碑を通り過ぎると小さな遊園地がありました。以前から遊具が老朽化していたところに東日本大震災で被害が出たためしばらく閉鎖されていましたが、私が訪れる直前に正式に廃止が決まったものです。
花の美しい時期にこんなところで遊べたら、さぞや楽しかったことでしょう。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)
松ヶ岡公園(福島県いわき市)
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

そのほかには幕末の平藩主にして幕府老中を務めた安藤信正の銅像があります。
銅像の周りはツツジ園なので、こちらもよい季節に訪れれば美しかったことでしょう。
松ヶ岡公園(福島県いわき市)

『安藤對島守信正公銅像の記』
 安藤信正公は文政2年(1819)11月江戸で生まれた。父は安藤家9代の信由、母は吉田藩主松平信明の女である。諱は初め信睦と称し、のち信行さらに信正、鶴翁と改めた。弘化4年(1847)8月、29歳の時父の遺領を継ぎ磐城平藩主となった。
 早くより俊英の才を発揮し、翌5年には奏者番に、嘉永4年(1851)には寺社奉行に、安政5年(1858)には若年寄として幕政に参画した。万延元年(1860)42歳の時老中となり外国御用掛りを勤めた。以来激動する日本の政治の中枢にあること2年、遣米使節・遣欧使節の派遣、条約締結、小笠原諸島の領有宣言、樺太国境決定の交渉、皇妹和宮の降嫁実現など、在任中に果した業績は大きい。 文久2年(1862)坂下門外で攘夷派の浪士に襲撃され、老中を退任した。
 隠居後の慶応4年(1868)5月、平城に拠り奥羽列藩同盟に加わり西軍を迎え撃つも利なく、9月降伏の後東京に移る。明治4年(1871)10月、東京の屋敷で歿した。53歳であった。
 この銅像は、平字八幡小路に居住した本多朝忠(1895~1986)が制作し、大正11年(1922)6月旧平藩士の集い「平安会」によって建立された。この像の建つ地は古来薬王寺台と呼ばれ、戊辰戦争では平藩の砲台が置かれ、西軍に抗戦した拠点として知られる。また、宝暦6年(1756)美濃国加納(現岐阜市)より磐城平に移住した安藤家家中の者が、はるか西方を望んで旧地を思い偲んだ「望郷の山」でもある。のち銅像は太平洋戦争の激化にともない金属供出のため昭和19年に撤去された。戦後、諸橋久太郎平市長を会長に安藤信正公銅像再建期成同盟会が結成され、現いわき市内を中心に行政及び一般さらに各学校の生徒たちから寄付を募り、昭和37年7月に再建された。
平成18年12月吉日 磐城平藩主安藤家入部 250年記念事業実行委員会建之

しかし改めて写真を並べてみると、どうにも松ヶ岡公園に申し訳ないので、きれいな写真が沢山載っているサイトへのリンクも貼っておきます。花の季節の様子はこちらでご覧ください。
> 一徳堂写真館<とくさんの写真日記 in いわき>

(財)いわき市公園緑地観光公社による公園紹介ページ

(2012年12月訪問)

ブログ内検索 Search

アーカイブ Archive

地図 Map

問い合わせ Contact

名前

メール *

メッセージ *

Facebook Page

QooQ