393/1000 尻内東公園(青森県八戸市)

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八戸駅で東北新幹線から在来線への乗り換え待ちが1時間以上あったもので、駅から出て近くをブラブラしている時に見かけた公園です。

八戸駅は、東北本線の駅として明治の頃からあるのですが、市役所や城跡のある八戸市街地は二つ隣の本八戸駅付近です。八戸駅のまわりは、幹線道路沿いこそホテル、銀行などがありますが、ひとつ裏に入ると低層住宅地の中に若干の商店が入るくらいのまちなみです。

さて、そんな八戸駅徒歩3分程のところにある尻内東公園は、草の広場の周囲をサクラがぐるりと取り囲むきれいな公園でした。
この年、東京や大阪では3月末にサクラが満開を迎え、各地の花見行事のスケジュールが大変になったという報道がなされましたが、八戸では4月半ば近くなっても蕾がふくらみ始めたところでした。
尻内東公園(青森県八戸市)

392/1000 辻南公園(沖縄県那覇市)

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No.391で紹介した那覇市・辻地区ですが、歓楽街になっているのは辻2丁目で、南にある辻1丁目はわりと普通の商業地混じりの住宅地です。その1丁目に辻南公園があります。

軽自動車が止まっていてわかりにくいですが、あたかも横尾忠則が描くかのように絵になるY字路に立地しています。

391/1000 辻公園(沖縄県那覇市)

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那覇港に近い那覇市・辻地区は、琉球王朝の時代からの遊郭街でした。明治になって沖縄県が誕生してからもそれは続きましたが、沖縄戦の空襲で焼き尽くされ、戦後は料亭街、私娼街として再建されていき、現在ではソープ街の様相を呈しています。
そんな辻地区のド真ん中、辻2丁目にある小公園が辻公園です。

下の写真は隣にある市営住宅のそばから辻公園を見たところ。公園の向こうにある3階建ての建物はソープランドです。

390/1000 三文殊公園(沖縄県那覇市)

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那覇の歓楽街である辻地区の外れの方に、「三文殊」という一風変わった地名にちなむ小公園があります。地名は「サンモウジ」と読みますが、公園名は「サンモンジュ」と読むようです。

三文殊とは、諺に言う「三人集まって文殊の知恵になる」のとは関係なく、「一人ひとりが文殊くらい賢い人が三人集まった」という伝承によるもだという説があります。
公園内にある解説板には、次のように書かれています。

389/1000 豊見城住宅の中の遊具広場(沖縄県豊見城市)

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「豊見城住宅」という3階建てのコンクリート住宅が並ぶ団地の中にある遊具広場(プレイロット)です。
ふだん、このブログでは団地の中の遊具広場やマンションの公開空地までは取りあげていないのですが、少し気になる遊具があったので紹介します。

388/1000 すみれ児童公園(沖縄県豊見城市)

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豊見城市宜保地区の住宅地の中にある小さな児童遊園です。
写真奥に見える団地など、造成によってできた崖下の土地を使っており、やや変形の三角形の敷地です。
すみれ児童公園(沖縄県豊見城市)
すみれ児童公園(沖縄県豊見城市)

387/1000 たんぽぽ児童公園(沖縄県豊見城市)

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那覇市との市境にもほど近い、豊見城市豊見城の戸建て住宅地の中にある小さな児童遊園です。
ちょうど訪れた時に清掃・点検の方が車で来ていたため、下の写真では公園入口の車止めが外されていますが、出入り口を抜けるといきなり大きな樹が行く手を阻みます。
No.324の千鳥公園が典型でしたが、沖縄の公園では「公園に入ったらいきなり何か(高木、景石など)が行く手をふさぐ」という例が散見されます。魔物を防ぐという「ひんぷん」が取り入れられているのでしょうか。
たんぽぽ児童公園(沖縄県豊見城市)

386/1000 平和台太陽公園(沖縄県豊見城市)

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平和台団地の西端にはNo.385の平和台児童公園がありましたが、東端にはこちらの平和台太陽公園があります。「平和」かつ「太陽」ですから、なかなか願いのこもった名前の公園です。
平和台太陽公園(沖縄県豊見城市)

385/1000 平和台児童公園(沖縄県豊見城市)

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No.384の我那覇児童公園がある我那覇地区と、No.383の宜保にこにこ公園がある宜保地区とに跨るように平和台団地という戸建て住宅地があります。この団地がある高台と、西側の旧集落から連なる低地の住宅地との境界となる崖地に平和台児童公園があります。

ただ、急な崖地にムリヤリ公園をはめ込んだような立地のため、利用・管理とも難しくなっているという印象の公園です。
平和台児童公園(沖縄県豊見城市)

384/1000 我那覇児童公園(沖縄県豊見城市)

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那覇市から豊見城市に向かう県道231号を走っていくと、那覇市の南端・宇栄原のあたりで一度標高が高くなり、豊見城市の名嘉地、我那覇に入るところでガクンと下がります。この崖に沿った開発残地のようなところに我那覇児童公園があります。

もともと我那覇と名嘉地とは別々の集落のはずですが、今は住宅が連担していて境界はよくわかりません。
ということで名嘉地の村落獅子(シーサーが住宅屋根の上に乗る以前、村々の入口を守っていた石造の獅子)も紹介しておきましょう。
大雑把ですが、この獅子のある通りを東に入って行って、北にある崖に向かって坂道を登っていくと我那覇児童公園に着きます。
我那覇児童公園(沖縄県豊見城市)

383/1000 宜保にこにこ公園(沖縄県豊見城市)

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これまでに登場した豊見城市の公園は、海辺のニュータウン・豊崎地区の公園でしたが、「にこにこ公園」は、もう少し内陸に入った宜保地区の住宅地にある小公園です。
宜保は豊崎よりも少し古く、平成の初め頃に開発が進んだ地区ですが、にこにこ公園の開園は2003年(平成15年)で、地区の中では遅れてきた公園と言えます。

公園の敷地は東側にあるバス通りと西側の裏道とに挟まれており、バス通りから裏道の方へ下がっていく緩い傾斜地になっています。
その傾斜地を利用した大型複合遊具とターザンロープが0.16haの敷地の多くを占めており、それを除けるようにブランコ、揺れる動物などが少しだけ置かれています。
宜保にこにこ公園(沖縄県豊見城市)

382/1000 ふれあい広場(沖縄県豊見城市)

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豊崎ニュータウンの中にあるふれあい広場は、2004年(平成16年)に開設された、まだ新しい公園です。一見すると埋立地の住宅地内にある普通の街区公園なのですが、なぜか排水がイマイチな感じでした。
ふれあい広場(沖縄県豊見城市)

381/1000 わんぱく広場(沖縄県豊見城市)

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豊崎ニュータウンの中にあるわんぱく広場です。
きれいな真四角の敷地全体が芝生広場となって、その中を円形の園路が通り、園路の外側に遊具が置かれています。
わんぱく広場(沖縄県豊見城市)

しかし残念なことに、訪れた時はウマも、アヒルも、円木(平均台)も使用禁止になっていました。直前に遊具の一斉点検があって、まとめて不備が見つかったのかも知れません。
わんぱく広場(沖縄県豊見城市)
わんぱく広場(沖縄県豊見城市)
わんぱく広場(沖縄県豊見城市)

380/1000 あおぞら広場(沖縄県豊見城市)

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あおぞら広場は、戸建て住宅の建設が進む豊崎ニュータウンの中にある新しい公園です。
あおぞら広場(沖縄県豊見城市)

公園の真ん中を園路が通っており、半分は天然芝、半分は砂入り人工芝の広場になっています。それだけ聞いたら複数面持っているサッカー専用施設みたいですが、それぞれの広場の様子は写真で見てのとおりです。

379/1000 翁長南公園(沖縄県豊見城市)

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No.301の豊崎海浜公園で触れましたが、那覇市の南隣にある豊見城市の海岸沿いに人工島があります。
旧・陸地から島へと向かう橋は2本あり、小さい方の橋の近くにあるのが翁長南公園です。
竣工は2001年ということですので、人工島の埋め立てと合わせて進入道路を整備した頃に、同時に作られたのではないかと思います。
翁長南公園(沖縄県豊見城市)

378/1000 鳳来山公園(石川県輪島市)

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石川県輪島市の市街地の西の端、東に輪島港、西に袖ヶ浜海岸を見下ろす風光明媚な公園が鳳来山(ほうらいざん)公園です。
山の名前は「鳳来」ですが、所在町名は「鳳至(ふげし)町」。鳳至の名は律令時代から続く鳳至郡から採られたものだと思います。大きな鳥が来たり至ったりと意味ありげですが、それ以上は知りません。

それはさておき、私が輪島を訪れたのは真冬の2月。暴風雪警報という雪国以外では聞き慣れない警報が出た日でした。
朝から降り積もった雪を踏みしめて、まち外れの鳳来山に向かいます。

山の東麓には、奥津比咩(おきつひめ)神社があります。
輪島の沖合50kmに浮かぶ舳倉島に本宮があってお祀りされていたのですが、1975年(昭和50年)に分祀されて、こちらの里宮が建てられたということです。舳倉島は古くから夏の間だけ海女が移り住んで漁をする島だったと聞きますので、そのあたりの暮らしぶりが変わってお参りがしづらくなったのでしょう。
鳳来山公園(石川県輪島市)

奥津比咩神社から少し離れたところに、公園東側の入口があります。
まっすぐに昇っていく階段は味気ないようにも思いますが、津波避難の時はこういうのが良いのです。
鳳来山公園(石川県輪島市)

階段の上から見えるのは輪島港。中でも手前の海士町は漁師町の家並みがよく残っており、有名な輪島の朝市が開かれるあたりとは違った雰囲気があります。
鳳来山公園(石川県輪島市)

階段をずっと登っていくと広場があります。
雪ばっかりでさっぱり分かりませんが、広場の周りにはサクラやモミジが植えられているような気がしました。
鳳来山公園(石川県輪島市)

広場の奥の小高いところには、1913年(大正2年)に建てられた鳳至郡内の戦没者をまつる忠魂碑があります。
現地の解説板によれば「この碑は、下で拍手を打つと反響を起こす仕組みになって」おり、昭和の初め頃に、かの野口雨情もやってきて拍手を打ったということです。面白そうだったのですが、雪の積もった階段が危なっかしかったので登るのは止めました。
鳳来山公園(石川県輪島市)

広場からさらに雪道を登ると、山頂の展望台に着きます。
展望台といっても小さな広場とベンチがあるだけですが、眼下に袖ヶ浜を見下ろし、なかなか良い場所です。
鳳来山公園(石川県輪島市)

帰りは山の西側にある道から、なにかよく分からない動物の足跡を見ながら下山しました。
こういうのも雪山ならではの楽しみです。
鳳来山公園(石川県輪島市)

(2013年2月訪問)

377/1000 天保山公園(大阪市港区)

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江戸時代も終わり近くなってきた頃、大阪を流れる安治川では堆積した土砂で船が通りにくくなったことから「御救大浚(おすくいおおざらえ)」と呼ばれる大規模な浚渫工事が、1831年(天保2年)から2年間、のべ10万人を越える人員を動員しておこなわれました。この時に出た浚渫土を18mにも積み上げたのが天保山(当初は目印山と呼ばれた)です。
天保山公園(大阪市港区)

この浚渫費用は幕府の調達だけでなく、大商人から市井の町人までが寄付金を出し、さらに連日、数千人の人足が町ごとのお揃いの衣装に身を包み、幟を立てた舟に乗って、鉦・太鼓で囃しながら川を進むという、一種のお祭り騒ぎのような大イベントであったということです。

376/1000 安田公園(富山県富山市)

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安田公園は、現地の園名板では「安田記念公園」と書かれています。
これは安田善次郎安田財閥の創始者)の生家跡を公園として整備したもので、競馬の安田記念(JRA初代理事長・安田伊左衛門を記念)とは関係ありません。

375/1000 芝園町二丁目公園(富山県富山市)

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芝園町二丁目公園は、小さな集会施設と一体的に整備された狭小公園です。
小さな広場の周りに、ブランコ、鉄棒などのオーソドックスな遊具が並びます。
訪ねたのは雪の残る時期で花などは少ないのですが、清掃や草刈りはしっかりされて丁寧に管理されていました。
芝園町二丁目公園(富山県富山市)
芝園町二丁目公園(富山県富山市)

374/1000 県庁前公園(富山県富山市)

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No.373の富山城址公園で少し触れましたが、城址公園の北を流れる松川は、1902年(明治35年)に付け替えられた旧・神通川の名残で、今の松川が10数メートルの川幅であるのに対して、旧・神通川は300メートルほどの川幅があったようです(水みちだけでなく、両側の川原も入れての幅だと思いますが)。
廃川跡は埋め立てられ、現在は県庁、市役所、NHKなどが立ち並ぶオフィス街となっていおり、その中に県庁前公園も含まれます。ちょうど現在の富山県庁と県庁前公園をあわせたくらいが旧河道の川幅にあたるようです。

富山市郷土博物館 博物館だより45号『神通川の改修』

ということで県庁前公園。

373/1000 富山城址公園(富山県富山市)

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江戸時代、俗に「加賀100万石」と呼ばれた加賀前田家ですが、実際には加賀だけでは100万石もなく、隣接する能登、越中にまたがる領地を持っていました(というか石高では越中国分の方が多いくらい)。
江戸時代の初めには120万石ほどあったのですが、第三代・利常が次男(利次)と三男(利治)とにそれぞれ富山10万石、大聖寺7万石を分封したことで、富山藩がスタートします。

この富山藩の拠点となったのが、富山城です(この場所での城の歴史そのものは室町時代前期に遡るそうですが)。現在は、利次が整えた近世富山城のうち、本丸と西の丸、埋め立てられた堀の一部が富山城址公園となっています。
もっとも、明治以降に県庁や県会議事堂ほかの公共施設用地としてかなり改変されており、今の城址公園から往事の姿を想像するのはけっこう大変です。

まず本丸、西の丸の間にあった堀は埋められて、現在は一繋がりの広場のようになっています。
公園開設以来、広場そのものも何度も改修されていると思われ、曲輪の構造などを偲ばせるものはとくにありません。
富山城址公園(富山県富山市)

372/1000 宝町一丁目公園(富山県富山市)

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ある土地が公園になるのにも、その時々で色々な理由があるもので、何十年も後になってパッと見ただけでは「なんでこんな場所を公園に?」と思うことは多々あります。
富山県庁から富山駅に向かって歩いている途中に見つけた宝町一丁目公園も、そういうタイプの公園です。

駅前の繁華街の中で、料亭と駐車場とに三方を囲まれた間口4m、奥行きは20mほどの細長い短冊形の敷地。
奥の方にプレハブ倉庫が置かれているのと、若干の植栽のほかには公園らしい施設はとくにありません。
宝町一丁目公園

371/1000 奥山線跡遊歩道(浜松市中区)

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現在は新浜松駅から西鹿島駅までの一路線だけの遠州鉄道ですが、以前は奥山線という路線がありました。
もとは浜松鉄道という別会社で、沿線には参拝客の多い名刹や茶畑、No.370(和地山公園)で出てきた陸軍施設などもあって賑わっていたそうですが、戦後まもなくに遠州鉄道と合併、1964年(昭和39年)には廃線となりました。

路線距離は約25kmありましたが、廃線のうち浜松城公園の北側あたりは一般道になっており、そこからやや西寄りの鹿谷町付近から遊歩道として整備されています(終わりまでは行っていないので、何キロくらい続くのかは不明です)。

下の写真が下谷町付近で一般道から遊歩道が分かれるところ。
名物だった機関車の煙突を模したモニュメント、同じく車輪を模した車止め、、国道の下をくぐる煉瓦造のトンネルと、導入部から美しく整備されています。
奥山線跡遊歩道(浜松市中区)

370/1000 和地山公園(浜松市中区)

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浜松の市街地は天竜川沿いに発達した低地にあるのですが、市役所(もとの浜松城)から静岡大学のある北の方に向かうと、だんだんと起伏の多い台地になってきます(さらに北に向かうと古戦場で有名な三方原の台地に繋がります)。
その台地上に、かつて陸軍の連隊と練兵場が置かれていました。終戦後、連隊跡地は静岡大学のキャンパスとなり、練兵場跡地の一部が和地山公園となりました。公園整備が1969年(昭和44年)ですので、終戦からの20数年の間はどのような状態だったのかはわかりませんが、その間も浜松まつり(大凧揚げ)の会場として利用されていたということなので、なんらか利用可能なオープンスペースのままだったと思われます。
また、静岡大学のキャンパス内には軍用地時代の建物が残っているそうです。

現在の和地山公園で軍用地時代の名残と言えば、昭和天皇が閲兵した際の記念碑。
和地山公園(浜松市中区)

と陸軍用地の境界石。どちらも公園の端の方にあるので、おそらく公園整備の際に場所を移してきたものと思われます。
和地山公園(浜松市中区)

369/1000 関の内公園(宮城県東松島市)

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宮城県の東松島市は、航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」の拠点である松島基地があることで有名です。東日本大震災では、この基地も含めて広い範囲で大きな被害を受けました。

その松島基地から歩いて10分ほどのところに関の内公園があります。周りは農地交じりの住宅地で、海岸線から2kmくらい離れていますが、約2mの浸水があったということです。
訪れた時には、地震から2年近くが経っており、また雪が積もっていたこともあって、公園内にとくに津波被害の跡は見つけられませんでした。

園名板が横文字というのも珍しいですね。
"SEKINOUCHI PARK" でも構わないと思うのですが、なぜか"PARK OF SEKINOUCHI" と書かれています。


368/1000 五橋公園(仙台市青葉区)

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地下鉄で仙台駅の南隣にあるのが五橋(いつつばし)駅。江戸時代、このあたりには道と水路が交わって5本の橋が架かっていたそうです。
大阪には4本の橋が架かっていたので四ツ橋という地名が残っていますが、それの一つ上を行きます。

で、その駅のすぐ近くに五橋公園があります。
交通の便が良く、周囲はビジネス街という立地ですので、時々イベント会場としても使われているようですが、大通りからはわずかに隠れているため観光客の目にはとまりにくい公園です。

いちおう通りに面して出入口は開いているのですが。
五橋公園(仙台市青葉区)

367/1000 神田公園(兵庫県尼崎市)

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このブログには、以前に東京の神田公園が登場しましたが、今回は尼崎の神田公園です。

高架になっている阪神・尼崎駅のすぐ北側に、車中からもよく見える大きな鳥居があります。鳥居に比べて社殿が小さな尼崎えびす神社の大鳥居です
この鳥居も含めて、神社の参道・境内と一体化した公園が神田公園です。
尼崎市の都市計画概要図を見ると、道路に囲まれた細長い三角地のうち社殿が建つ一角を除いて公園としての都市計画決定がなされています。

こちらが高さ17mの大鳥居。狭い敷地いっぱいに笠木を広げて建つ姿は、足元の滑り台を圧倒します。見よ!この存在感。
神田公園(兵庫県尼崎市)

366/1000 北浜公園(兵庫県尼崎市)

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No.365の三の丸公園とともに、こちらの北浜公園も今ひとつ命名時の状況がわからない公園名称となっています。
と言うのは、この公園の場所は尼崎城の外堀の一部をなし、1971年に埋め立てられた大物川と繋がっていた水路跡なのですが(下の解説板のカラー部分の一番右端)、いったい何の北にある浜だったのでしょう?
水路は南北に通っており、なにかの北側と呼ぶには難しい条件だと思うのですが...

それにしても、この絵図入りの解説板は、近世尼崎城と現在地の関係について非常にわかりやすくなっています。旧尼崎城内でも一番外れのこの公園だけでなく、No.364365のようにお城の中心に近いところにある公園にも同じような解説板があれば、城内のどの位置に当たるのかが分かって散策の縁となったと思います。
北浜公園(尼崎市)

365/1000 三の丸公園(兵庫県尼崎市)

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No.364の尼崎城址公園で尼崎城の遺構が地上にはあまり残っていないことに触れましたが、地下にはちゃんと残っていて、本丸にあたる市立明城小学校と文化財収蔵庫(元・市立城内中学校)の敷地で阪神・淡路大震災後におこなわれた建て替え工事の際には、本丸御殿の礎石建物遺構が見つかったそうです。

で、その収蔵庫から細い道を挟んで北側にあるのが、三の丸公園です。ただ困ったことに、どの資料を見ても本丸の北側にあったのは二の丸だということになっています。
この矛盾の理由は資料不足でよくわからないのですが、さすがに二の丸と三の丸を間違えたというのは考えにくいので、公園の場所移転や区域変更がおこなわれた可能性もあります。また機会があれば確認してみたいと思います。
三の丸公園

364/1000 尼崎城址公園(兵庫県尼崎市)

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尼崎城は、江戸時代を通じて尼崎藩(おおかた4~5万石)の中心だったお城です。
当時は今よりも海岸線が内陸に入っており、大物川、庄下川、大阪湾に囲まれて船で直接城内に出入りできる尼崎城は、さながら海に浮かぶようであったということです。

しかし明治に入って廃城となり、敷地は払い下げ、建物は取り壊し、石垣は港湾工事などに転用、堀もどんどんと埋め立てられたうえに、直近を鉄道や国道が通り市街化が進んだことから、今となってはどこが城跡なのか、かなり判りにくくなっています。
私はとくに城跡に詳しいわけではないのですが、明治になるまで使っていた城が、城の中心部まで完全に市街地に飲み込まれてしまった例というのは、そう多くないと思います。
むしろ、日本の都市公園100選&歴史公園100選を見てもわかるように、城跡は都市の中心的な公園になっていることが多いのです。

363/1000 上鳴尾公園(兵庫県西宮市)

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阪神電鉄・鳴尾駅のすぐ近くに鳴尾八幡神社があります。
平らな土地にあり、線路脇からスーッとまっすぐに続く参道が印象的なお社です。
上鳴尾公園

その北側、上鳴尾町自治会館と一体的な区画に上鳴尾公園があります。そうした立地ですので、古い時代から村の共有地的な土地だったではないかと想像します。
現在の公園は、道路と用水路に囲まれた、やや変形の鈎型の敷地の北側に遊具広場、南側に多目的に使える広場があります。
上鳴尾公園

362/1000 八ツ松公園(兵庫県西宮市)

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西宮市の鳴尾地区は、もともとは武庫川の河口近くのなだらかな土地で、川沿いの微高地に育つマツが美しく目立っていたそうです。

大正時代に武庫川の改修に伴って廃川となった支川の枝川跡地に住宅地が開発され、これが甲子園と名付けられました。今は甲子園○○町という住所表記の範囲は広がっていますが、甲子園一番町~九番町までが当初の開発範囲だそうです。
ということで、現在は甲子園駅から徒歩3分ほどの甲子園六番町にある八ツ松公園のあたりも、かつては枝川の土手に八本松が並んでいたのではないかと想像します。

そういう土地なので水には不自由しなかったのかと思いきや、天井川となっている武庫川からの取水は困難だったようで、天正19年(1591年)の水争いの記録が残っているそうです。
八ツ松には、この争いの折に犠牲となった人々を顕彰する碑が建てられています。話は豊臣時代と400年以上前のことですが、碑が建てられたのは40年ほど前だという話です。
八ツ松公園