日本の都市公園は約10万ヵ所。その1/100なら行けるだろうと思って始めた覚え書きですが、1000ヵ所を超えても続いています。揺れる動物も集めています。

2014年4月4日

635/1000 会下山小公園(神戸市兵庫区)

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No.634の会下山公園から100メートルも離れていないところに会下山小公園があります。
地形的には一繋がりの山に大小2つのピークがあったものが、鞍部で住宅開発が進むうちに分断され、大ピークは会下山公園に、小ピークは会下山小公園になったような格好です。

公園の敷地は、ピーク部の大きな広場と、一段下がってピーク部を巻くように造成された小広場とに分かれます。
大きな広場の方は、円形の土の広場の外周部に、ブランコや滑り台+ジャングルジム遊具などが少しだけ置かれているような仕立てです。その構造から、小学校のグラウンドのような雰囲気も漂います。

滑り台+ジャングルジムの複合遊具は、ジャングルジム部分が空中に持ち上がっていて、下部を雲梯のように使って遊ぶこともできます。
てっぺんまで登ると4m以上あり、さぞ眺めがよいことでしょう。

色がきれいだったので、少しビビッドな色合いの写真も撮ってみました。

こちらのブランコは、市街地側の斜面から伸びてきている樹の枝を払った方がよいでしょう。
そうすれば、フェンスの側に向かって立ち漕ぎすると、崖から落ちるような楽しい感覚が味わえるのではないかと思います。

もっとも無理にジャングルジムやブランコで眺望を楽しまずとも、展望台もちゃんとあります。
見たところ写真右手のパーゴラの方が古いようなので、「雨が降ったら濡れるようなパーゴラだけではなく、ちゃんと屋根があってベンチもある展望台を!」という要望があって後付けされたのではないかと思います。

そして展望台とは反対側の斜面には、とくによく目立つクスノキの大木があります。
樹のそばに案内板があるのですが、そこには地元のまちづくり協議会の方により「元気に、凛々しく、格好よく成育中のこの『クスノキ』を会下山地区のシンボル樹に選定しました。愛称は日本歴史上会下山と関わりのある人物の一人が『楠木正成』ですので、その名前を拝借してマサシゲと命名しました」とあります。
う~む、クスノキだからマサシゲかぁ...

さて、実はこの公園には「牧野公園」という別称もあります。
No.623 川池公園でも登場した植物学者の牧野富太郎が研究所としていた場所の跡地だからです。それが大きな広場から一段下がった小広場にあたります。

以前から石碑はあったのですが、最近になって石碑の周りが少しきれいに再整備されました。
ちゃんと写していないのですが、碑の周囲にはキンモクセイ、クチナシ、ノジギク、ツワブキなど牧野が命名した植物が植えられています。

●石碑より「牧野富太郎植物研究所跡」
世界的な植物学者 牧野富太郎博士の研究所が、昭和7年から昭和16年までこの地にあった。
植物研究所は、南蛮美術収集家として著名な池長孟が牧野富太郎のために提供したものである。
日本の植物分類学の先駆者である牧野富太郎は「ヤマトグサ」を初め数々の新種を発見し、独学で研究の結果66才で理学博士、90才で文化功労者となり、昭和32年96才で没した。

その横には大型の東屋(休憩所)。屋根からぶら下がったドルマークは、牧野となにか関係があるのでしょうか??
接近写真を取り忘れたのですが、東屋の左手の方に小さく、川池公園にあったものと対になる門柱石が寝かされてベンチ代わりになっているのも見えています。

東屋の中には、牧野というよりはそのパトロンとなった池長孟、研究施設として提供された建物「正元館」の解説板が設置されています。
池長は資産家にして著名な美術収集家でもあり、後に神戸市に寄付された美術品の数々は、今も神戸市立博物館で見ることができます。

●正元館
明治44(1911)年校舎改築に伴って売却されることになった「兵庫尋常高等小学校」の木造瓦葺西洋風2階建講堂が池長孟氏の父、通氏の尽力によって当所に移築され大正元年11月10日に落成開館され「正元館」と名付けられ、通氏はその功績によって名誉館長に任命されたが大正3年に亡くなったため、建物その他一切が孟氏にゆずられた。

昭和16年に牧野氏に標本や蔵書を返した後、建物は海軍の軍刀を作る「菊水鍛刀会」にゆずられて利用されたが、戦後建物は取り除かれた。

●池長孟氏の牧野富太郎植物学者への援助と「池長植物研究所」設立
世界的な植物分類学者、牧野富太郎(1862~1955 ※転記注釈:没年は1957年の誤り)は研究生活の早い段階から経済的困窮に陥っていた。

大正5(1916)年には借金がかさみ折角集めた植物の標本を売却せざるを得なくなった。同年12月18日の大阪朝日新聞に「不遇の学者牧野氏植物標本10万点を売らん」と書かれた。

池長氏は牧野氏の境遇に同情し「他人に先鞭をつけられてはならない」とすぐに援助する行動に出た。池長氏が父(池長通)から受けついでいた「正元館」(現牧野公園に在った建物)に植物の標本を引きとり、関西は勿論全国的にも存在しなかった「植物標本陳列所」の設立を企画したが、池長氏の徴兵によって志は残念ながら頓挫した。

よく、古くからある石碑の横に、石碑には書ききれていない内容などを加味した新しい解説板が置かれることがあるのですが、その内容が重複したり食い違ったりしていてスッキリしない気分にさせられることがあります。
ここでも、牧野富太郎の没年が間違っている(すぐ隣の石碑と食い違っているのに、誰も気づかないものなのか?)、同じ解説板の上段で説明している池長通や正元館の説明が下の文章にも繰り返し出てくる(たぶん別々の人が書いたか、別の資料から引っ張ってきた)など、その類にあたります。
自分もこういう解説板・案内板の設置に関わることがあるので、このスッキリしない気分は自らの糧にしたいと思います。

●神戸市HPより「池長孟と南蛮美術館

(2014年1月訪問)

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